明治生まれの六代目、祥太郎の日記1966年(昭和41年)12月21日「11時より落合・巴 維新の日光の功労者の牌 公会堂前に立つ 除幕式あり参列する」
日光総合会館(旧公会堂)わきに建つ落合源七・巴快寛顕彰牌。
明治になり発令された神仏分離。神仏習合の日光山においてこれを完全に実施すると、堂塔の破壊や移転により景観が損なわれるとして、現状維持を訴える町民運動が起こった。町民代表の落合、巴が運動の中心となり、明治九年の明治天皇の奥羽御巡幸の際には、明治天皇に景観の保存を直訴した。こうした町民と二人の尽力により、今の日光の美観が保たれたという。その顕彰牌が昭和41年に建立された。
先人の決死の訴えがあり今の日光の景観があるのですね。