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2022-05-30

2022/5/28(Sat) 日光火之番八王子千人同心顕彰の燈

 日光の表参道と中山通りの角に、日光火之番八王子千人同心顕彰之燈 が建っています。承応元年(1652)に幕府より日光火之番を命じられた武州八王子の千人同心は、明治元年(1868)まで江戸期の長い間、遠い八王子から日光を火災から守り抜いた。この功績を伝えるため昭和33年に建立。今の日光があるのは彼らのおかげなのですね。

2022-01-30

2022/1/30(Sun) 落合源七・巴快寛顕彰牌

明治生まれの六代目、祥太郎の日記1966年(昭和41年)12月21日「11時より落合・巴 維新の日光の功労者の牌 公会堂前に立つ 除幕式あり参列する」

日光総合会館(旧公会堂)わきに建つ落合源七・巴快寛顕彰牌。

明治になり発令された神仏分離。神仏習合の日光山においてこれを完全に実施すると、堂塔の破壊や移転により景観が損なわれるとして、現状維持を訴える町民運動が起こった。町民代表の落合、巴が運動の中心となり、明治九年の明治天皇の奥羽御巡幸の際には、明治天皇に景観の保存を直訴した。こうした町民と二人の尽力により、今の日光の美観が保たれたという。その顕彰牌が昭和41年に建立された。

先人の決死の訴えがあり今の日光の景観があるのですね。



2021-11-23

2021/11/23(Tue) 青龍さん、沼尻さんの御供当番

青龍神社の御供箱です。青龍神社は、弘仁年中の820年ごろ、弘法大師が日光に来た際に、弟子が京都の青龍神を移し祀ったのが始まりといわれています。本町の氏神様で、祈晴の神様でもあり、東照宮、二荒山神社の例大祭の際には晴天を願って祈晴祭りがおこなわれています。下本町では、各世帯が当番制で、青龍神社と沼尻観音様をお参りしています。(下本町はかつて、本町一丁目でした)


2013-04-16

2013/4/16(Tue) 放菴居士命日

 町中に響くお囃子の音を遠く聞きながら霧降の坂を上っていくと、ひっそりとした杉林の中に春陽の木漏れ日を浴びた小杉放菴さんのお墓があります。

弥生祭宵祭りの日は、放菴居士の祥月命日。たまたま通りかかった所用のついでに立ち寄ってみると、ちゃんとお花とお団子がお供えしてあり、ほっとしました。

下界を離れてシンプルで静寂。彼らしいお墓です。

帰りに足元に落ちていた葉っぱを拾って匂いをかいでいたら、大女将が「それはあすなろだよ。」と教えてくれました。

「お財布に入れておくとお金が増えるんだとさ。」

本当?



2012-11-17

2012/11/17(Sat) 日光の 恩人サトウと 武田久吉

 9月に宇都宮大学のスタディツアーで訪れた、匠町浄光寺にある武田久吉博士のお墓。久吉は、明治期に日光を世界に紹介したイギリス人外交官アーネスト・サトウの次男で、英国で植物学を学んだ優れた植物学者であり、日本山岳会を指導しました。

気がつけば高井家の墓のすぐ東の高台にあり、びっくり。

今日の国際的観光地日光があるのも、彼の父アーネスト・サトウ氏のおかげです。皆でお花をお供えしてお参りしました。



2009-04-02

2009/4/2(Thu) 声明も 木霊となりて 開山会

4月1日は開山会でした。奈良時代に日光山を開いた勝道上人の命日です。行者道の始点ちかい開山堂に、輪王寺の僧侶、信仰の方達が参列して静かに上人様の遺徳をしのびます。

開山堂すぐそばの仏岩。見上げるような杉木立の中で、そこだけ明るい春の陽が注ぐ仏像群。日光の神秘的な歴史を感じさせます。

さぁ、これからが日光の春本番!といいたいところですが、風が冷たいですねー。



2007-05-31

2007/5/31(Thu) 滝の尾に 神が降りたる 5月かな

  5月25日は滝尾神社のお祭でした。続いて28日は、二荒霊泉に日本酒の出来を報告し感謝する報醸祭が行われました。滝尾神社の傍らには「酒の泉」という清水がこんこんと湧き出る泉があります。男体山の雪どけ水が山の中を伝わって地上に出るまで、いったいどのくらいの時間が流れているのでしょうか。

 今年の春は忙しい忙しいと言っているうちに、こごみはすっかり伸びてしまって、山椒の木の芽も大きくなってしまいました。明日から6月です。カツオもろくに楽しんでいないというのに、山の若葉はもうフサフサです!

 自然の生命をはぐくむ時間に比べて、人間の自分勝手な時間のなんと愚かなことか…



2007-04-01

2007/4/1(Sun) 開山の 祖をしのびつつ 古道行く

  今日は4月1日。「開山会(かいざんえ)」です。奈良時代766年に日光山を開山した勝道上人の命日です。東照宮裏の古道・滝尾道入り口近くの開山堂で法要が毎年執り行われます。そのお堂に裏には勝道上人のお墓があり、苔に包まれてひっそりと静かに眠っています。輪王寺一山の僧侶の鮮やかな僧衣が、まだ枯れ木の深山に美しく、読経の声も厳かに響きわたりました。

 うららかな春の木漏れ日を浴びながら、滝尾道の散策はいかがでしょうか。神橋から滝尾神社まで片道1時間ぐらい。だれもいない史跡めぐりもまた格別です。

 明日はいよいよ強飯式です。



2006-06-13

2006/6/13(Tue) 「世々をへて 結ぶ契りの 末なれや この滝の尾の たきの白糸」

う~む。どうも見事だと思ったら、昔の偉い方の歌です。文明18年(1486)、京都聖護院のご門主様が滝尾神社に参詣した時に詠みました。東照宮の裏にある私の大好きな行者道半ばの「白糸の滝」です。最近は森が切り開かれて昔のうっそうとした神秘さが失われつつあります。

 この滝のそばにはこの歌碑とともにもう1つのモニュメントがあります。「ジョン・K・エマーソン。日本の友」。第2次世界大戦前後駐日公使として日光に滞在し、帰国後書いた回顧録の題名も「日本の糸」とつけたぐらいこの地を愛していました。きっと散策しながらこの滝を眺めたのでしょう。日本人よりもこの静寂を理解していたのですね。写真には写っていませんが、今この滝の向かいは駐車場。歌が心に沁みます。




2006-04-29

2006/4/29(Sat) 明日は晴れ 青龍神社の 御供当番

  青龍神社の御供箱です。青龍さんは弘法大師空海が滝の尾・寂光を開いた時に弟子がご加護を祈って京都醍醐の青龍神を移し祀ったそうです。本町の氏神様ですが、東照宮・二荒山神社の大祭の前には晴天を祈って祈晴際が行われます。

 この御供箱は、昔から本町の各世帯が当番制で毎日お参りするため、お米を入れて青龍さんまで運びます。いつごろからの伝統なのか、今では誰も知っている人はいなくなりました。続いているのは下本町だけですが、最近は世帯数も少なくなり当番が廻ってくるのが早く感じられます。

 本当に日光ではあちこちにお社や石像があって、拝んでいるうちに1年があっという間に過ぎて行くようです。日光が神仏習合の聖地だといわれる由縁が、こうしたことからもよくわかります。



2006-04-16

2006/4/16(Sun) 放菴忌 祭囃子を 遠く聞く

  神橋の近く旧日光小学校跡地に小杉放菴記念日光美術館があります。放菴は明治・大正・昭和にかけて洋画、日本画、書、短歌などで活躍し、日本の近代美術史に大きな足跡を残しました。酒を愛し「未醒」という雅号を持つところは恐れ多くも高井家先祖の酒袋にも相通ずるものが…

 毎年4月16日の放菴忌は、二荒山神社弥生祭宵祭りの日であるため日光市内は花家体が繰り出し華やかな祭囃子があふれています。そんな時ひっそりとした小倉山の杉木立の下にある放菴のお墓をお参りすると、まるで今にも風に乗って笛の音が聞こえてきそうです。

 そういえば彼は「おわら風の盆」の唄の作詞者でもあることを思い出しました。



2006-02-27

2006/2/27(Mon) 雨の夜の奉行所からの注文

 元禄13年(1700)、西町に日光奉行所が置かれました。現在は史跡の石柱だけが立っています。ながいこと古河電工の倶楽部ハウスがありました。近年いつの間にか取り壊されましたが、ほとんど景観が変わらないほど緑に囲まれたひっそりとした日本庭園だけが残っています。お裁きの跡地なので様々な伝説が…

 20年ほど前のある雨の夜、この倶楽部に泊まっているゲストから予約が入り、今からすぐ当店へむかうとの電話でした。しかし、歩いて3分ほどの距離なのにいっこうにお見えになりません。不審に思って倶楽部に問い合わせると「お泊まりのお客様はいません」との返事。その時はいたずらかと思いましたが、後から考えると…とても昼間のこの雰囲気では想像できませんね。



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